失ってから分かる「人」と「もの」

何時も傍にいる人、何時も傍にあるものは時に有り難さを見失います。何故ならいるのが普通でありあるのが普通であるからです。しかし傍にいる、傍にあると言うのは永遠にいる訳で無くある訳でもありません。身近な人の事で言えば「親」でしょう。親に対しての感謝や後悔は傍にいなくなってからしみじみと分かるものです。身近なもので言えば「携帯電話」例えが悪いかも知れませんが今ではなくてはならないものでしょう。車に乗ってエンジンを掛けると「ナビが携帯電話を忘れていませんか?」とメッセージをくれます。慌てて家に帰り携帯電話を手にして途中で財布が無いのに気づいても遅刻しそうなのでそのまま仕事をした事もあります。物は忘れても取りに行けば良い。壊れれば新しいものに変えれば良い。でもいつもある物が無いと、この時代では本当に困ります。しかし何時も傍にいてくれた人はそうは行きません。別れがくれば二度と会う事は出来ません。聞きたくても答えてくれません。人とは何事にも代えがたく判れの時に笑顔で別れられ「又。会おう」と言えればその人との人生はまったく問題なしではなかったかと思います。「わが生涯に一片の悔いなし」と言った有名なアニメがありましたが歳を取り周りの人との別れが多くなってくると「こう言う事だったのか」と思える様になって来ました。その人との後悔無い付き合いはとても大切です。「親子」「夫婦」「従妹」「友人」「知人」などは特にです。

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