法事の大切さに気付きます。

毎月、亡き義父と義母の仏前に良宣寺ご住職においで頂いてお経を上げて頂いています。コロナの非常事態宣言中ではありますが換気を良くしてウィルス対策用の空気清浄機をフル稼働させてマスク着用でお経を唱えます。月に一度の事ではありますが先祖と成った父母にお経を通じて語りかけている様に思えますが実際は何も語りかけてはいないのですが。時々、仕事や人間関係で考えて見たは答えが出ない時などは法事の時でなくとも仏前に座りお経のCDを聞きながら無心にて座っています。見ている所は蝋燭です。何も考えず無心に集中して見ています。お経のCDは約20分です。蠟燭も20分灯り続けます。それで終わりです。しかしこの約20分の時間と言うのが私は嫌いではありません。
一日の時間にすれば少ない時間ですが私にとっては大切な時間です。時に座って見よと先祖に呼ばれているのかも知れません。生きている時は見えない事が沢山あります。しかし亡くなってからは生きている人間の考え、行動、未来が見えるのかも知れません。良く先祖に守られていると言われる言葉もこの事に触れる事かも知れません。すれば生きているからこそ気付かなくては行けません。気付かない、それを先祖は伝えたいが伝える事は出来なのでしょう。何故なのかそれは亡くなった方と生きている人とはいる場所が違うのでしょう。亡くなった方からは見える生きている人間からは見えない果てしない距離があるのでしょうね。しかしその距離が縮まる時があります。それがお彼岸などのお墓参り、命日や法事などなのかも知れません。私の見解ですが亡くなった父母は仏壇の向こうに背を向けて座っています。その遥か先にお釈迦様がおられます。亡くなられた方はお釈迦様の元へ向かいます。その為には生きている者が敬う行動が必要です。そうですお墓に参る、仏前に手を合わせると言う心の行動です。お鈴を鳴らせば澄み渡る「チーン」という音が鳴りますが、この音によって人々の邪念を払うと言われているのです。さらには、この音にのせて、供養や祈りを極楽浄土に届けるといった事も言われています。であれば生きている人間が手を合わせる事で父と母が手を合わせている事に気付いてくれてお釈迦様の元に進めて行けると思っています。この様な事を言うと宗教にどっぷり浸かった人だと言われるかも知れませんが、私は父、母が大好きです。会えることなら会いたいと思っています。皆さんはそう思う事は無いのでしょうか。亡くなったら仕方ない関係ないでは悲しい話です。だからこそマイホームには今は必要なくとも必要になる時が来た時に対応出来る間取りにしておかなくては行けません。そしてリフォーム費用についても用意が必要です。いきなりのお金の準備は厳しいでしょう。だからこそ少しづつ準備出来る状態にしなくては行けません。住宅ローンの返済額が理想の返済額を超えている場合その準備に考えが行くでしょうか。多分、無理でしょう。これを考えることが出来るご夫婦は先祖に守られて幸せな家庭を築き子供たちがその考え行動を継いで行くでしょう。これ以上の幸せはありません。皆さんこれを望んでいる筈なのにどうして忘れるのでしょうか。だからこそ法事は大切なのです。と私は思っています。

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