「悪人正機」浄土真宗、親鸞聖人の言葉に考えさせられます。
浄土真宗開祖、親鸞聖人の言葉に「悪人正機・あくにんしょうき」と言う言葉があります。昔の言い回しだと「善人なおもて往生を遂くいわんや悪人をや」となります。意味がわかりません。現代風に訳すと「善人は救われる、悪人こそはなお更救われる」との事だそうです。私が最初にこの言葉を知った時「何故?」と思いました。率直に「悪人は救われる必要なし、何故なら悪人だから」と思いました。しかしどう言う者を善人と悪人とは何かという所から考えると意外な事を思う事に成ります。浄土真宗では①(法律・身・肉眼)②(道徳・口・虫眼鏡)③(仏教・心・電子顕微鏡)の三つに分けて考えているそうです。①の法律的に見て善人なのか悪人なのかと言う振り分けは、人を殺めた者は刑務所に収監されて罪を償わなくては行けまんせん。だからこそ悪人でありそうでない者は善人と言う事になります。つまりは身の行い(やったのか、やっていないのか)が問われます。②の道徳的とは①の身を下していなくても言葉で罵ったりすることです。
今の世の中でも誹謗中傷のSNSで自殺をされた方がいます。身の行いプラス倫理・道徳・モラルにおいて善人か悪人かが問われます。③では仏教的観点から心の中を見ると成ります。①の行動で人に害を起こさず②の言葉で中傷出さなくても③の心な中で邪見する思いがあれば善人か悪人かと言われれば悪人となる。と説いている様です。法律は肉眼に例えられ、道徳は虫眼鏡で例えられ、仏教は電子顕微鏡に例えられます。肉眼(身)で悪人と見えなくとも虫眼鏡(口)で悪人と見えなくとも電子顕微鏡(心の中)で見られればどうだろうか?そこに親鸞聖人は「一切の群生、穢悪汚染にして清浄の心なし」との言葉を残されています。「この世のすべての人々は、例外なくえあくおぜんである。悪にけがれている汚れてしまっている。要は心の中まで見れば汚いものを必ず持っている、清らかな心はない」と説かれています。現代においても当てはまると思います。すべての人の心が見えれば善人はいない事が。
そこで冒頭に戻りますと悪人正機とは「正機」とは正客つまりはメインゲスト、仏教では悪人こそが目的で仏の救いの狙いである。仏が助けたいのはこの悪人であると言うのが悪人正機の意味です。ただ悪人とは苦悩の人とも捉えることが出来ます。この言葉を見た時にふと自身に置き換えることが出来ました。ある方の行動が法律的に肉眼で見て道徳的に言葉で発し聞いて仏教的の心の中を見た時にこの人物を悪人と言わず何と言うと思っていましたが、それに対する自身の行動、言葉、心はどうだったかと見るとそれこそ悪人かも知れません。ただ今回、私は布石を置くだけにしました。布石だけです。これ以上の行動も言葉も心もありません。
この情報へのアクセスはメンバーに限定されています。ログインしてください。メンバー登録は下記リンクをクリックしてください。