因果応報の意味
日常生活でもよく耳にする「因果応報」という言葉は、仏教の教えを表す言葉です。
一般には、人を騙したり、嘘をついたり、不正をした結果、それが発覚して、処罰を受けるようなことがあると、「因果応報だ」などと使われたりしています。「苦しんでいるのは、自分のやった悪い行いのせいだ」という意味で用いられる場合が多いのですが、本来は、悪い結果に限らず、善い結果も「因果応報」です。
「因果」とは、「原因」と「結果」のことで、「どんな結果にも必ず原因があり、原因なしに起きる結果は一つもない」ということです。
事故を報じるニュースで、必ずといっていいほど、「事故の原因を詳しく調査しています」とアナウンサーが語るのも、どんな結果にも、必ず原因があるのが大前提だからです。
ただ、原因が“分からない”ことはあります。例えば、飛行機が墜落して、海底深く沈み、機体を引き上げられない場合は、事故原因を知るのは難しいでしょう。しかしそれは原因が“ない”のではありません。エンジントラブルや機長の操縦ミスなど、必ず何らかの「原因」があって、墜落という「結果」が起きたのです。
次に、「応報」とは、「原因」に応じた「報い(結果)」が現れる、ということです。
まいた種に応じた結果が必ず現れるのが「因果応報」
野菜を育てることで例えてみましょう。
カボチャのタネを蒔いたら、カボチャが出てきます。大根のタネを蒔けば、大根が出てきます。カボチャのタネから大根が出てきたり、大根のタネからカボチャが出てくることは絶対にありません。
同じように、原因に応じた結果しか現れないと教えるのが仏教の「因果応報」の教えです。
「そんなの当たり前じゃん!」と思われるかもしれませんが、これは一切の例外を認めません。
ですから、私たちの幸福や不幸という「結果」にも、それに応じた「原因」が必ずあるということなのです。
善い運命も悪い運命も、すべて、「自分の行い」に応じて現れた結果であることが分かれば、むやみに人を恨んだり憎んだりすることは、なくなります。
と思う様にしました。
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