京都に行きました。

住宅ローンコンサルティングの依頼を受けたお客様に歴史上の人物の末裔と言われる方がおられます。お話を聞いてすっかりハマってしまいました。それも平安時代です。歴史大好きの私にとって羨ましいの一言です。そのお客様のご先祖様は平家。平清盛公の五男、平重衡公です。源氏の大将、源義経が唯一恐れた平家の武将です。その末裔が私のお客様です。嬉しいの一言に尽きます。そのお客様と知り合った事自体奇跡と思うのですが、なぜか責任も重大です。住宅ローンコンサルティングの依頼を受けた時点でお墓参りに行かなくてはと思いつつ、お盆もありましたので過ぎてからと考え8/19に早朝4:00に出発しました。平重衡公は平家の棟梁、平清盛の指示で南都焼討を行いました。東大寺や興福寺を焼き払い僧侶も惨殺すると言う結果になりました。当初、平清盛も平和的な話し合いを持つべく平家側よりの使者に軽微な身構えに少数な人数にて話し合いを行おうとしたのですが、以前よりのしきたり等を重んじる東大寺側、興福寺側は武家の統制に危機感を持っており、平家側の使者を斬首とし首を晒したところに平家の棟梁、平清盛公が激怒し東大寺、興福寺を焼き払った。その時の指揮を平重衡公は命じられ従った訳です。平治の乱の後の世の中で統制を保つと言うのは難しい時だったと思います。平家4万の大軍で南都を攻め僧兵の討伐が東大寺や興福寺を焼き払ったと言うのは意としなかったと記録には残っています。しかし結果的には南都の街を焼き払い僧兵を掃討したことは間違いはない様です。その後、平清盛公が急死すると平家の勢力は徐々に失われていきます。源氏の源頼朝が挙兵をする動きを見せる中で平家の戦いは続き墨俣川の戦い水島の戦いで勝利して活躍するが、一ノ谷の戦いで捕虜になり鎌倉へ護送された。平氏滅亡後、南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『玉葉』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は牡丹の花に例えられたという。その歴史上の人物になぜか挨拶をせずにはおられず、京都に行きました。木津川の安福寺にある供養塔、重衡公の首を洗ったと言われる首洗い池、伏見にある墓地へ線香を手向け挨拶を行って来たのでした。感深い時間を過ごしました。

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