降幡備前守政重公の墓所へ伺いました。

三河アシストリファレンスのお客様に平家、平重衡公の子孫がおられます。重衡公のご子息が平家滅亡の際に信濃の仁科氏を頼り安曇野の地に着きました。その時に名を平(たいら)より降旗(ふりはた)と名乗ったと末裔のお客様より伺いました。天下を取られた名であり桓武天皇から脈々と受け続けてきた名を変える時のお気持ちは尋常では無かったのではと思います。日本人として今の若い方にもあると思うのですが、名前を汚されることは何事にも代えがたいと思います。この事は今も昔も変わりません。そんな降幡家の先祖が眠る地へ私、水野がどうしても伺わなくてはと前日、午前3時西尾市を出発したのでした。墓所へ伺った理由はご子孫のマイホームをプロデュースを行う者としてご挨拶に伺ったのでした。立派な墓所でした。政重公が鎮座する周りには一族が眠っておられました。どのお墓も黒石に金文字で大きなお墓でした。墓石には降幡家の家紋「三階菱」が輝いていました。この家紋が示す様に武田家の重鎮。ただただ立派としか思えてなりません。ただ少し不幸な歴史があった様に思えます。平家再興を願い天皇家に使えるまでになるも使えていた天皇が突然の崩御されました。これは平家の再興を断念するしかなかったと記録に残っております。しかし武田に使え重鎮となるも平家と同じく武田家も滅んでしまいます。そして降幡家は語り継がれる歴史のページから消えて行くのでした。しかし降幡家は脈々と子孫は続き、今、私のお客様として巡り合う事と成りました。このご縁は何もなければご縁頂くことはありません。何かあるからこそご縁を頂いております。そのご縁は計画的とかの話ではなく人には感じ得れない何かが働いたのではと私は信じています。その何かはさっぱり私には分かりませんが、分からないのであればこちらから伺うしかないと今回の行動と成りました。「降幡家のご先祖様、どうぞ末裔を見守って上げて下さい。私はお世話する者として最大限の力を持ちましてお世話させて頂きます。」

 

 

 

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